弘法大師と空海の違いは?同じ人で、弘法大師は921年に醍醐天皇が贈った諡号、観賢が願った名は本覚大師だった、大師号25人中の位置

※本記事には広告・アフィリエイトリンクが含まれます。

「空海」と「弘法大師」は、教科書やお寺の案内で並んで出てくる名前です。X(旧Twitter)でも、高野山の奥の院を訪ねて「弘法大師空海が今も瞑想されているとされる」と書く投稿や、毎月21日を「お大師様」の縁日として紹介する投稿が見られました。一方で、「最澄も日本で初めての大師号『伝教大師』を持っているのに、誰もそう呼ばない」と指摘する投稿もありました。二つの名前の関係は、意外とあいまいに覚えられているようです。

この記事では、東寺の公式サイト、空海研究所所長・武内孝善氏が中外日報に寄せた論考、真言宗醍醐派(醍醐寺)の管長のことば、新纂浄土宗大辞典、天台宗の公式ページ、コトバンクに収められた百科事典、東京新聞の記事などをもとに、空海と弘法大師の違い、大師号が贈られた日付と経緯、名前の出典、ほかの「大師」との関係を整理しました。

目次

結論:空海と弘法大師は同じ人。生きている間の名前と、亡くなった後の名前

楽天で空海の伝記を探す

先に答えを書くと、空海と弘法大師は同じ一人の僧です。空海は本人が生きている間に名乗った僧としての名前で、弘法大師は亡くなってから86年後に、朝廷から贈られた名前(諡号=おくりな)です。東寺の公式サイトは、二つを続けて「弘法大師空海」と書いています。

時期 呼び名 根拠
子どものころ 真魚(まお) 東寺公式サイト
798年ごろ 教海、のち如空 個人サイト「ウェブサイト空海」の年表
805年 遍照金剛(灌頂名) 東寺公式サイト
921年 弘法大師(諡号) 『日本紀略』、勅書

真魚から遍照金剛、弘法大師まで、名前が変わった順番

東寺の公式サイトによると、空海は讃岐国(いまの香川県)に生まれ、幼名を真魚といいました。都に出て大学に入ったものの、「だれも風をつなぎとめることはできないように、だれがわたしの出家をつなぎとめることができようか」と述べて僧の道を歩みはじめます。延暦16年(797年)12月1日、24歳で『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を書き上げました。これがのちに改訂されて『三教指帰』と呼ばれる書物です。

僧になってからの名前は、資料によって書き方に幅があります。個人サイト「ウェブサイト空海」の年表は、延暦17年(798年)に和泉国の山寺で沙弥となって名を「教海」とし、のちに「如空」と改めた、と記していました。同じ年表は、延暦23年(804年)4月9日に東大寺戒壇院で得度したとしています。ただし、この年表は寺院の公式資料ではないため、教海・如空という名前は一つの伝えとして受け取っておくのが安全でしょう。なお、この年表は797年を23歳としていて、東寺の「24歳」と1歳ずれます。数え年で書くかどうかの違いと考えられ、どちらかが誤りというわけではありません。

延暦23年(804年)、空海は私費の留学僧として遣唐使船で唐に渡りました。東寺のサイトは、同じ船団に、のちに天台宗を開く伝教大師最澄が乗っていたことにも触れています。翌延暦24年(805年)、長安の青龍寺で恵果に会い、胎蔵界・金剛界の灌頂と、正統な密教の師となる伝法阿闍梨位の灌頂を受けて真言密教の第八祖となりました。このとき授かった灌頂名が「遍照金剛(へんじょうこんごう)」です。「南無大師遍照金剛」は、この灌頂名に「大師」を重ねて呼びかける言葉で、Xでも毎月21日の縁日を紹介する投稿がこの一句で結ばれていました。

帰国後は嵯峨天皇の信任を得て、弘仁7年(816年)に高野山の開創を願い出、弘仁14年(823年)1月19日には東寺を託されています。そして承和2年(835年)の旧暦3月21日、高野山で入定しました。つまり、空海が生きている間に「弘法大師」と呼ばれたことはありません。弘法大師の名は、入定から86年後の延喜21年(921年)に初めて生まれたものです。本人の名前としては「空海」、信仰の対象として呼ぶときは「弘法大師」「お大師さま」と使い分けられてきた、と整理すると分かりやすいでしょう。

「弘法大師」は921年10月27日、醍醐天皇が贈った諡号

楽天で弘法大師の本を探す

弘法大師という名前がいつ、どのように贈られたのかは、日付まではっきり分かっています。ただし、そこに至る経緯や名前の由来には、研究者の間でも議論が残っています。

延喜18年から3年がかり、上奏は何回あったのか

空海研究所所長で高野山大学名誉教授の武内孝善氏は、中外日報(2020年12月11日)の論考で、まず日付を確定させています。『日本紀略』の延喜21年(921年)10月27日の条に「故贈大僧正空海に勅謚して、弘法大師と曰う。権大僧都観賢の上表に依るなり」とあり、同じ日付の勅書も伝わっていることから、この日に大師号が下賜されたことは間違いない、という説明です。贈ったのは醍醐天皇、願い出たのは東寺の観賢僧正でした。

武内氏が示した延喜18年(918年)からの動きは、次のとおりです。延喜18年8月11日に寛平法皇(宇多天皇)が謚号の下賜を願い、同年10月16日に観賢が奏請します。延喜21年10月2日、観賢が重ねて「本覚大師」の謚号を求め、10月5日にも早期の下賜を求める書を草しました。そして10月27日、「弘法大師」の謚号が贈られます。従来は、寛平法皇の1回と観賢の2回、合わせて3回の上奏を経て勅許された、と考えられてきました。

ところが、寛平法皇の上奏文が本物かどうかについては、昔から見解が分かれています。杲宝の『我慢鈔』や賢宝の『弘法大師行状要集』、長谷宝秀の『弘法大師伝全集』、『密教大辞典』などは本物とみなしてきました。一方、守山聖真の『文化史上より見たる弘法大師伝』は、文章の大部分が『贈大僧正空海和上伝』と同じであること、法皇の上奏文としては荘重さに欠けること、表請文の体をなしていないことを理由に、法皇の真撰ではないとしています。

武内氏も守山説の側に立ちます。理由は二つで、漢詩文に通じた寛平法皇が空海の事績を『空海和上伝』からそっくり写すとは考えにくいこと、そして上奏文の後半に意味の通らない箇所があり、観賢の上表文を下敷きにして書かれたとみられることです。そのうえで武内氏は、法皇が重要な役割を果たしたこと自体は確かだとしています。勅書に「况や太上法皇、既に其の道を味わい、追って其の人を憶う」とあるからです。この見方に立てば、正式に上表したのは観賢の2回で、法皇は後ろ盾として関わった、という整理になります。

観賢が願った名は「本覚大師」。「弘法」の出典は二説ある

意外に知られていないのが、観賢が最初から「弘法大師」を求めたわけではない、という点です。武内氏の論考によると、観賢は延喜21年10月2日の上表で「本覚大師」の名を求めましたが、醍醐天皇が下賜したのは「弘法大師」でした。真言宗醍醐派の仲田順和管長も、大師号下賜から1100年にあたる2021年1月のことばで、観賢が本覚大師という名を奉請したのに対し、醍醐天皇が空海の業績を称えて「弘法利生」という言葉から「弘法」の二字をとった、と説明しています。

では「弘法」はどこから来たのでしょうか。古くからよく引かれてきたのは、学僧・賢宝が示した説です。『久米流記』所収の『無畏三蔵懸記』にある「来葉に必ず弘法利生の菩薩有り。此の法を世に恢むべし」を出典とみなすもので、これを踏襲する例は今も見かけます。しかし武内氏は、『久米流記』の成立は鎌倉時代まで下るので、921年の命名の出典にはなりえない、と退けています。

代わりに武内氏が注目したのは、空海自身の著作です。「弘法」を検索すると、「弘法利人」が3か所、「弘法利人之至願」が1か所、「弘法利生」が1か所見つかったといいます。「弘法利人」は、法を弘めて人々を救い利益すること。師の恵果の人となりを記すところで、恵果のただ一つの願いが「弘法利人」だったと書かれています。「弘法利人之至願」は、弘仁6年(815年)4月、空海が密教を本格的に広め始めたときの『勧縁疏』にある「今、弘法利人の至願に任えず」という一文です。武内氏は、密教の宣布を誓った最初の言葉が「弘法利人の至願」であり、ここから弘法大師の名が生まれたと考えています。醍醐寺の説明する「弘法利生」と、武内氏の「弘法利人」は、どちらも「法を弘めて衆生や人々を救う」という同じ方向の言葉ですが、出典をどこに求めるかには違いがある、ということです。

ちなみに、空海が受け取らなかった「本覚大師」の名は、のちに別の真言僧に贈られています。新纂浄土宗大辞典によると、鎌倉時代の延慶元年(1308年)、益信(やくしん)に本覚大師が贈られました。観賢の希望どおりになっていたら、空海は「本覚大師」と呼ばれていたかもしれない、というわけです。

なぜ921年だったのか。『三十帖策子』の回収と天覧

空海の入定は835年です。それなのに、なぜ86年も後の延喜年間に大師号が求められたのでしょうか。武内氏は、醍醐天皇・寛平法皇・観賢の3人がそろって関わった最大の出来事として、『三十帖策子(さんじっちょうさくし)』の回収と天覧を挙げています。

『三十帖策子』は、唐にいた空海が経典や儀軌など約150部を書き写した、枡形の小さな冊子です。東寺の経蔵に秘蔵されていましたが、貞観16年(874年)に真然が持ち出し、弟子の寿長・無空へと伝わりました。延喜16年(916年)、それを持っていた無空が山城の圍提寺で亡くなると、冊子は弟子たちの間で分散してしまいます。根本の法文が散逸しかけていることを藤原忠平が醍醐天皇に奏上し、天皇は観賢に回収を命じました。

観賢はすべてを取り戻せず、延喜19年(919年)2月に寛平法皇の力を借りて全冊を回収し、目録を作って同年3月1日に天覧に供しました。天皇は同年11月2日、冊子を納める革の箱(革筥)を贈り、東寺経蔵に秘蔵するよう命じています。武内氏は、この天覧の場で空海の入唐の苦労と恩恵が語られ、大師号が話題になったのではないか、と推測していました。観賢の最初の上表(延喜18年10月)は、回収と天覧の動きのちょうど真ん中にあたります。このときは天皇の内意は得られたものの勅書は出ず、延喜21年10月の2度目の上表に応えて勅書が下された、という流れです。

この経緯をさらに詳しく知りたい場合は、武内氏の著書『「弘法大師」の誕生――大師号下賜と入定留身信仰』(春秋社、2021年12月刊、四六判248ページ、定価2,970円)が手がかりになります。版元の紹介によると、第一部は大師号の下賜を扱い、寛平法皇の上奏文、観賢の3通の上奏文、勅書、名前の出典、『三十帖策子』の回収を順に検討して、最後に「弘法大師」号の撰者は誰か、という問いで締めくくられています。第二部は、空海が高野山の奥の院で今も生きているという入定留身信仰が、いつどのように生まれたのかを史料から追った内容です。

大師号を持つのは空海だけではない

楽天で最澄の本を探す

「大師」という言葉は、もともと特定の一人を指すものではありません。新纂浄土宗大辞典は、大師を「偉大なる師、大導師」の意味で、サンスクリットのシャーストリ(śāstṛ)の漢訳にあたる、と説明しています。最初は「釈迦大師」のように仏の尊称で、中国で高僧への尊称となり、日本では天皇から贈られる諡号になりました。

最初は866年の最澄と円仁。授かったのは25人

日本で最初に大師号が贈られたのは、空海ではなく天台宗の僧です。天台宗の公式ページによると、円仁は貞観6年(864年)1月に71歳で亡くなり、その2年後、清和天皇によって最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」という、ともに日本で初めての大師号が贈られました。年は貞観8年(866年)です。東京新聞(2022年4月9日)は、空海に弘法大師が贈られたのは最澄らより55年遅い921年だった、と書いています。

同じ記事によると、歴史上、大師号を贈られた僧侶はわずか25人です。記事は、僧侶に対する大師号には「人を教え導く偉大な指導者」といった意味がある、とも説明していました。新纂浄土宗大辞典は、主な流れを次のようにまとめています。平安時代は最澄・円仁のほか、円珍に智証大師、空海に弘法大師。鎌倉時代は延慶元年(1308年)の益信の本覚大師。その後は慶安元年(1648年)に天海が慈眼大師を贈られるまで間が空き、元禄10年(1697年)には法然に円光大師が贈られました。これが天台・真言の両宗以外では初めての例です。

ウィキペディアの「大師(僧)」の項目は、天皇が贈る号のうち、国師号や禅師号は生前に許されることもあったのに対し、大師号は没後に限られていた、と整理しています。空海が生前に弘法大師と呼ばれなかったのは、この性格からも当然といえます。同じ項目によると、明治16年(1883年)10月8日に「大師号国師号賜与内規」が定められ、大師号は宗名を公称する宗派の祖や中興の祖に与えるものとされました。

一人で複数の大師号を持つ例もあります。東京新聞によると、複数を持つのは黄檗宗の隠元と浄土宗の法然だけです。隠元は大正天皇と昭和天皇から大師号を授かり、2022年2月25日に「厳統大師」が伝達されて「真空・華光・厳統大師」となりました。法然は円光大師以降、平成までに8つを授かったとしています。新纂浄土宗大辞典も、円光に続いて東漸・慧成・弘覚・慈教・明照・和順・法爾の7つを、500回忌から800回忌まで50年ごとに挙げていて、合わせると8つです。一方、平凡社『世界大百科事典』は「現在までに七つ」、ブリタニカ国際大百科事典は1962年に「従来の五大師号に加えて和順大師」と書いていて、執筆時点や数え方によって数字がずれています。最新の数を確かめたいときは、執筆年の新しい資料を基準にするのがよいでしょう。

  • 伝教大師:最澄(天台宗、866年)
  • 慈覚大師:円仁(天台宗、866年)
  • 弘法大師:空海(真言宗、921年)
  • 本覚大師:益信(真言宗、1308年)
  • 慈眼大師:天海(天台宗、1648年)
  • 円光大師:法然(浄土宗、1697年)

「お大師さま」「弘法さん」が空海を指すようになった理由

楽天で東寺や弘法大師ゆかりの本を探す

これだけ多くの「大師」がいるのに、ただ「お大師さま」と言えば、ほとんどの場合は空海を指します。その理由は、名前の格の違いではなく、信仰の広がり方にあると考えられます。

「大師は弘法に奪われ」と、毎月21日の弘法さん

コトバンクに収められた平凡社『世界大百科事典』は、空海の弘法大師の名は人々に親しまれ、単に〈大師〉といえば弘法大師を指す、と書いています。ブリタニカ国際大百科事典も、俗に「お大師さま」というときは弘法大師空海を指す、としていました。ウィキペディアは、この現象を表す言い回しとして「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」を紹介しています。仏壇店のコラムも同じ言葉を取り上げ、本来は特定の誰かを指さない称号が、一人の有名人に固定されてしまう例だと説明していました。冒頭で紹介した「最澄も大師なのに誰も伝教大師とは呼ばない」というXの投稿は、まさにこの状態を言い当てたものといえるでしょう。

その親しまれ方を形にしているのが、毎月21日の行事です。東寺の公式サイトによると、空海の遺徳をしのぶ法要「御影供(みえく)」は延喜10年(910年)に東寺の灌頂院で始まりました。天福元年(1233年)に運慶の子・康勝が空海の像を刻み、延応2年(1240年)からは御影堂でも御影供が営まれるようになります。参拝者のために「一銭一服」の茶屋が店を開いたのが市の始まりで、700年あまりを経て、今では毎月21日に1000店近い露店が並ぶ「弘法市」になりました。東寺は、いつしか空海が「弘法さん」と親しみを込めて呼ばれるようになり、21日は弘法さんの日になった、と書いています。入定した旧暦3月21日にあたる4月21日には、正御影供が営まれる決まりです。

京都府立京都学・歴彩館の「東寺百合文書WEB」に転載された上島有氏の文章(京都新聞2016年1月23日付)によると、御影堂の御影供は延応2年3月21日に始まり、毎月21日には約20万人が訪れるといいます。とくに年の初めの「初弘法」と年末の「終い弘法」が有名です。上島氏は、平安時代以来の鎮護国家の修法「後七日御修法」と、鎌倉時代以来の大師信仰に基づく庶民信仰の「弘法さん」が、東寺の二本柱になっていると説明していました。

地名にも「大師」は残っています。『デジタル大辞泉』には、神奈川県川崎市川崎区の地名「大師」が載っていて、川崎大師(平間寺)があると説明されています。『日本国語大辞典』も、「大師」と呼ばれる高僧をまつる所として、上野寛永寺の両大師と川崎大師を挙げていました。なお、同じ辞典には、天台宗の光定を「別当大師」と呼ぶように、朝廷とは関係なく一宗の中で大師と敬称する例もある、と書かれています。お寺の名前や案内に出てくる「大師」が、必ずしも空海を指すとは限らない点には注意しておきたいところです。

まとめ:弘法大師と空海の違いで押さえたい5つのポイント

空海や弘法大師について学べる本を楽天でチェックする

空海と弘法大師は、同じ人を時期と立場で呼び分けた名前です。要点を確認しておきましょう。

  • 空海と弘法大師は同じ人。空海は生前の僧名で、弘法大師は入定(835年)から86年後に贈られた諡号。幼名は真魚、唐で受けた灌頂名は遍照金剛
  • 弘法大師の号は、延喜21年(921年)10月27日、観賢の上表を受けて醍醐天皇が贈った。『日本紀略』と同日付の勅書が根拠
  • 観賢が求めたのは「本覚大師」だった。「弘法」の出典は、醍醐寺は「弘法利生」、武内孝善氏は空海の『勧縁疏』などにある「弘法利人」と説明している
  • 大師号は866年の最澄(伝教大師)と円仁(慈覚大師)が最初で、贈られた僧は歴史上25人。空海の号は最澄らより55年遅い
  • 単に「大師」「お大師さま」と言えば弘法大師を指すのが一般的で、東寺では毎月21日の御影供と弘法市が「弘法さん」として親しまれている

二つの名前の違いを知っておくと、お寺の由緒書きや歴史の本を読むとき、どの時代の話をしているのかがつかみやすくなります。次に「弘法大師空海」という表記を見かけたら、921年の勅書と観賢の上表を思い出してみてください。

楽天で弘法大師空海の関連書籍をまとめて見る

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

空海の生涯や思想、ゆかりの地について、気になったことを一つずつ調べています。

目次